コラム

来年は鹿児島に行きましょう

こんにちは。今年もあと2ヶ月となってしまいました。いかがお過ごしでしょうか?

世界的に株高ですが、日本株は個人投資家が空売りで担がれている、もしくは買いのポジションを減らしたままにしている人が多いようで、しばらく買い場を与えてくれないようです。

20171031_01私はというと、毎年塩イクラを自分で漬けていたのですが、今年は鮭の不漁で昨年より更に高くなっていて、まだ生筋子が仕込めておらず、正月用のイクラをどうしようかと頭を抱えております。

先週は、養殖場のイクラ盗難事件が何件か起きていましたね。
確か2年前は、まだ100グラム600円前後で買えていたのですが、昨年は年末に900円近くになっていて、昨日東急ストアを覗いたら1200円になっていました。
今年は、既成の冷凍ものにしようかと諦めモードです。

 

年末が近づくと、大河ドラマも終盤になってきて、どうしても来年の作品に目が行きがちです。

昨年の『真田丸』ほどの盛り上がりは見せておりませんが、何気に『おんな城主直虎』は欠かさず見ております。

あまり歴史的記録が残っていないためかなり想像力を引き延ばしているようで、「史実と異なるのでは?」というお叱りの意見もあるようですが、普通に井伊家のホームドラマであると割り切って見てしまえば、楽しめるのではないかと思います。

ただ、井伊家にはそれほど思い入れがないため今年は史跡の追っかけはしておりません。

それよりも来年の大河ドラマ『西郷(せご)どん』は個人的に熱くなりそうです。

斉藤由貴が例の騒動で降板して南野陽子が代役という『スケバン刑事(デカ)』リレーはさておき、薩摩藩(島津家)および西郷隆盛に対して以前から非常に関心がありました。(参照:2016/04/08コラム

特に、なぜ薩摩は他の武将もしくは大名が一目置くほど圧倒的に強く、しかもその強さを江戸時代の末期まで維持できたのかということが最大の関心事でした。

 

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武将像 伝島津忠久画像/尚古集成館所蔵

島津家の祖先は、惟宗忠久(これむね ただひさ)で、渡来系の秦氏の末裔に当たり1185年に源頼朝により、南九州にあった近衛家の荘園である島津荘の荘官に任命されたため、島津と名乗ったのが始まりだそうで、その後御家人から守護大名になりました。

以後、江戸時代末期まで一度も本拠地が700年間変わらなかったというから驚きです。

ただ、忠久自身は鎌倉に在住して代官を派遣して所領を支配していたようで、蒙古襲来を契機に、九州諸国に領地を持つ御家人を現地に常駐するように命じられた3代・島津久経(ひさつね)が、初めて薩摩を直接統治するようになりました。

鎌倉時代に、薩摩・大隅・日向の守護に任じられた島津家ですが、室町時代には内紛や反乱で一時弱体化しておりました。

その後15代・貴久が、再び薩摩・大隅を統一し、16代・義久が、他の3兄弟(義弘・歳久・家久)と共に日向・豊後・肥前を制圧し、九州統一目前までいったものの、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出しため、降伏。

そして、関ヶ原の戦いでは、西軍側に付き1000名の兵を義弘が率いて参加するものの、積極的には戦わず、西軍の敗戦が明確になり追撃戦に挑む東軍に退路を塞がれてしまったため、家康の本陣の近くを前方突破しようとして、井伊直政らの追撃を激しく受け、伊勢街道に抜けたもののその後も落ち武者狩りなどに遭い、大阪の薩摩屋敷に戻った時にはわずか70名だったそうです。

 

ところで、なぜ薩摩が幕末まで強さを維持できたのか?ということです。

戦国時代に一時期九州制覇の手前まで行き、それとともに配下の家来も増えたのですが、豊臣秀吉の九州制圧により、領地が再び薩摩・大隅・日向に縮小させられたため、家来衆を鹿児島城下に全員居住させることもできず、領地を113区画に区分して、各地域の中心部に地頭仮屋を設け、その周囲に麓(ふもと)集落という武士集団を配置して管轄させる外城制度という薩摩藩独自のシステムを構築し、武士の結束を維持しました。
故に、藩内の武士の比率が異常に高く、25~30%が武士階級(※全国平均:6%)であったそうです。
それを支える農民はたまったものではなかったでしょう。

また、示現流という薩摩藩独自の剣法が藩内に伝えらえました。

示現流は、「一の太刀疑わず」という一撃必殺の考えで、実践重視だったそうです。
猿叫という「キャアー」という掛け声を掛けながら、技は面・籠手・胴などはなく、左袈裟・右袈裟(肩から脇腹に向けて切り込む)の一手のみで、尚且つ受け太刀(防御)もなかったという攻撃一辺倒の流派でした。
それを幼少から学べばどのような精神構造を持った武士になるかは自明ですよね。

20171031_04武術に加えて、薩摩は外交上手(いわゆるポリティクスに長けている)という定評がありました。

それは、江戸初期に断絶していた日明貿易の回復を望んでいた徳川家康が、交渉の窓口に薩摩藩を指定したことに端を発します。
それに伴い既に明に朝貢していた琉球を取り込むべく、島津に琉球出兵の許可を出して1609年に奄美大島・徳之島・沖永良部島を制圧した後に、沖縄本島に上陸して領有化しました。
ポルトガルとの貿易が停止された後も、薩摩藩は幕府より公式に海外貿易を認められ、琉球や清(1644年に明は滅亡)との交易で莫大な富を蓄えつつ、鎖国状況下の他の藩とは比較にならないほど、実践的外交力も培ってきました。

このように、薩摩藩独自の歴史・政治・文化・外交・経済的な背景により圧倒的な強さを幕末まで維持できたと考えられます。
因みに、島津家は、時の権力者に取り込む努力も怠らず、徳川の将軍家や天皇家にも血縁関係を結んでおり、11代将軍・家斉の正室は、島津家の茂姫であり、13代・家定は篤姫を迎えられ、昭和天皇の皇后であった香淳皇后は、島津忠義の孫に当たられる方です。

・・・ということでもう少し予備知識を蓄えて、来年は大河ドラマに便乗して、今一度鹿児島県に行って幕末から西南戦争までの史跡を探索していきたいと思っております。

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    岡田 英行

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