コラム

土方歳三と日本人

20160818_01こんにちは。今月は夏季休暇シーズンですが、皆様はどう過ごされていらっしゃいますか?

私は、例年通りワンコを連れて軽井沢に行ってまいりました。

 

真田丸関係も段々ネタが少なくなって来たので、今回の往路は、忍城(「のぼうの城」のモデルになった城)、さきたま古墳群、犬伏の別れの地(真田昌幸・信繁と信幸が最後に話し合いをした場所)及び足利学校などを訪ねてきました。

脈絡がなくてすいません。

 

酒好きの私は今回も上田の某酒屋で長野県の地酒を4本ほど仕入れて参りました。

日本酒の味のレベルが最近特に上がっているお話はしましたが、名前も洒落ているものが多く、歴史的な知識のバックボーンが無いと恥をかくこともあります。

 

例えば滋賀県の長浜にある冨田酒造が作っている「七本槍」という銘柄があるのですが、これは賤ヶ岳の戦いで秀吉について武功を挙げた福島正則、加藤清正などの七武将のことを指すのを知ったのは私も最近のことでした。

また、高知県に「酔鯨」という有名な酒がありますが、これは幕末に活躍した土佐藩の藩主・山内容堂公を指しているってご存知ですか?

では、福島県会津若松市の鶴乃江酒造の出している「会津中将」は?
会津藩の藩主で中将に任じられている方が何人かいますが、その中の一人が幕末に京都守護職に就いた松平容保公です。

 

が、今回はその松平容保公の話ではなく、その京都守護職(会津藩)の下で幕末から明治維新にかけて暴れまわった土方歳三の話に絡んで最近考えていることです。

 

正直申し上げて、今まで新撰組は「暗殺者集団」「内ゲバ闘争」という暗いイメージが強くて、好きではありませんでしたが、土方歳三という人物の真っ直ぐで、ぶれない生き方・考え方というのは自分も共鳴する面が多々あります(因みに通勤電車の中では邪魔なので帯刀はしておりません)。

古くは「マカロニほうれん荘」、現在では「銀魂(ぎんたま)」などの漫画やアニメにも登場する強烈な個性の持ち主ですが、本人はかなり無口で、へそ曲がりであるものの、熱血漢であったようです。

 

(土方歳三, 1835-1869)

(土方歳三, 1835-1869)

私が土方歳三を初めて身近に感じたのは、今から14年前に函館の五稜郭を訪れた時です。

近くの若松緑地公園内の土方終焉の地に足を延ばし、そこで初めて、彼が縁もゆかりもない蝦夷地で完全燃焼し亡くなったことを知りました。

本人の写真を見たのもその時が最初で、現在でもモデルや俳優で通りそうなほど顔が整っているイケメン(美丈夫)だと感じました。

終焉の地らしきものはあるのですが、本人の遺体は五稜郭の近辺に埋められたということしか判明しておらず、発見されておりません。

土方が近藤のようにさらし首にされるのを恐れた仲間が埋めたのであれば、ほとぼりが冷めたころに遺体が出てくるはずなのですが、そのような動きもなかったということで、官軍側に降伏しようとしていた榎本武揚や大鳥圭介によって暗殺され、その証拠を隠すためにひっそりと埋められたという説もあるようです。

 

11歳からの10年超の奉公を終えて実家に戻った後、天然理心流の近藤周助(近藤勇の養父)に弟子入りしてから近藤勇との付き合いになりますが、近藤が包容力や政治力で組織を大きくしていたのに対して、土方は戦略面や隊の規律を厳守させるという形でサポートしていたという面で、二人は典型的な組織運営のパートナーと見ることができるかもしれないですね。

 

土方の戦略というのは天性のものであったようで、とにかく勘が鋭かったようです。

相手がいつどこからどのように攻めてくるかとか、初めて攻める砦や城の見取り図を現地で偵察しながら描いてどこが弱点かなどを見破る力をもっていたそうです。

恐らく戦国時代に近藤と土方が生まれていたら、かなりの軍功を挙げていたに違いありません。

池田屋事件、鳥羽伏見の戦い、甲陽鎮撫隊、宇都宮城攻略、宮古湾の海戦、箱館戦争などわずか5年間にこれだけの戦歴を残したというのも劇的な人生だったと思います。

 

鳥羽伏見の戦いの途中で逆賊になるのを恐れ大阪から船で江戸に逃亡した徳川慶喜や松平容保の情けない行動に対して、百姓出身の近藤・土方ら新撰組は最後まで幕府を擁護し武士道とは何たるかというものを行動で示したというのは、何たる皮肉かと思えますが、実は土方歳三のルーツというのが後北条氏に仕えた武士集団三沢十騎衆の土方一派で、八王子城の落城を機に土着して帰農した者の末裔といわれています。

 

ところで、今年で没後20年になる司馬遼太郎さんは著書「この国のかたち」で、日本人とは?ということをひたすら問うておられますが、日本人の精神面において、平安時代の末期に勃興し鎌倉時代を形成した武士の原型のひとつであった坂東武者と言われる集団の影響が大きいと言います。

坂東武者は「名こそ惜しけれ(家名に恥じない行動をする)」という考え方と「公の意識」が強かったといわれています。

 

その坂東武者のルーツは何でしょうか?

平安時代の末期に、律令制度の下土地を所有することができなかった農民が重い税負担に苦しみ、今までの土地を捨て、貴族階級から目の届かない東国の遠隔地の田を開墾して自らの所有地とする動きが広まりました。

しかし、東国の農民たちが私利私欲で自らの土地を開墾すると、他の農民との間に土地や水の奪い合いが生じるようになります(開墾したものの土地の権利関係があいまいな状態)。

そこで彼らは自衛のために武器を所持し、なおかつ遠方の農民との争いに勝つために近隣同士で徒党を組むようになります。

そのような集団が各地に生まれると、それを統合しようとする大きな組織が生まれ、坂東武者と呼ばれる集団が生まれたのです。

 

そして、坂東武者の棟梁から土地の安堵状を受けることで初めて土地の所有が認められた喜びを基に、「恩義を受けた人に恥ずかしいことをしない」という思いから「名こそ惜しけれ」という概念が発生したそうです。

 

時代が進み戦国時代になると、大名同士の熾烈な勢力争いが始まります。

彼らの頼りとなる兵の大部分が農民だったことから、武士は領民の信頼を得るためにどうすべきかと考え、例えば北条早雲は、早雲寺殿二十一箇条などという家臣の行動規範などを示して、自ら律し、尚且つ、惣構え(城の他、城下町一帯を含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ)に見られるように領民の一切を面倒見るという姿勢を見せたことから、従来の「恩義のある人のため」から「領国のため」という大義名分で、「公の意識」が形成されてきたと言います。

 

土方歳三 最期の地碑(函館市)

土方歳三 最期の地碑(函館市)

そののち、300年を経て、先述の通り後北条家の流れを汲んだ土方歳三が武家政権の終焉の場面で、武士道(坂東武者)とは何かを自らの命と引き換えに示したということになります。

そういう意味では、土方という人は「名こそ惜しけれ」と「公の意識」という概念で最後まで抗戦していたのでしょう。

 

しかし、この「公の意識(お国のため)」が日清・日露戦争の勝利で人々の気の緩みや傲慢さを招き、日比谷焼打ち事件を機に40年間暴走を続け、終戦という皮肉な結末を迎えることになりました。

 

司馬さんは、二度とそのようなことにならないためには、日本人の各人が確かな「個」を確立することだと言います。

私はへそ曲がりなので、オリンピックで日本中が熱狂するほどなぜか冷めてしまいますが、それは「個」とは言わないのでしょうね(笑)

終戦記念日は過ぎてしまいましたが、皆さんはどうお考えでしょうか?

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    岡田 英行

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